錦帯橋-上巻-吉川家 広家 墓所

錦帯橋-上巻-

吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。

吉川家家紋 吉川家初代広家~12代経幹までの当主や一族のお墓、全51基

 

初代藩主 吉川 広家

初代藩主 吉川 広家

きっかわ ひろいえ

没年 1625.09.21 享年65歳

 初代岩国藩主吉川広家は、吉川元春(毛利元就三男)の三男として永禄(えいろく)4年(1561年)に生まれた。元春と兄元長(長男)が、九州征伐の際に相次いで病死したため、元長の遺言により元長の養子となり、家督を相続した。文禄・慶長(ぶんろくけいちょう)の役(えき)では、朝鮮半島に出兵している。

 慶長(けいちょう)5年(1600年)、関が原の戦いの際には、安濃津城(あのつじょう)攻略に参加するなど西軍(石田三成側)として活動する一方、毛利家重臣福原広俊(ふくはらひろとし)とともに毛利家存続のため、東軍(徳川家康側)の諸将と交渉を行った。これにより、毛利家の領国安堵(りょうこくあんど)の約束を取り付け、合戦中の中立を決定した。戦後、防長2国に削減された毛利家より、玖珂・大島2郡の内3万石が与えられた。

初代藩主 吉川 広家

 慶長(けいちょう)6年、岩国へ入った広家は、都市計画に着手し、横山に本拠を構え、周囲に城下町を形成していった。慶長(けいちょう)13年には山上の要害も完成したが、元和(げんな)元年(1615年)の一国一城令(いっこくいちじょうのれい)により破却することとなった。

 広家は、江戸時代を通して行われた干拓事業を始め、家中法度(かちゅうはっと)の整備など内政に力を注ぎ、岩国藩の基礎を築いた。寛永(かんえい)2年(1625年)、通津の隠居所で死去した。広家をはじめ、吉川家歴代藩主は、ここ横山の吉川家墓所で眠っている。

初代藩主 吉川 広家

 

初代藩主 吉川 広家

 

「みみずくの手水鉢」 -ちょうずばち

 この手水鉢は、広島藩家老で茶人の上田宗箇(そうこ)から、桜の返礼として寛永2年(1625)に広家へ贈られました。広家と宗箇は共に千利休に師事し、交友がありました。手水鉢が今津に着いた時、広家は亡くなった後で、浄念寺に置かれました。その後、明治40年(1907)に現在地へ移されました。

「みみずくの手水鉢」 -ちょうずばち「みみずくの手水鉢」 -ちょうずばち「みみずくの手水鉢」 -ちょうずばち「みみずくの手水鉢」 -ちょうずばち

 

森脇作右衛門 長清入道竹隠

森脇作右衛門 長清入道竹隠

もりわきさくえもん ながきよにゅうどうちくいん

広家に殉死する

没年 1625.09.21 享年不明

殉死(じゅんし)
当時は主君の死を追うことが美徳とされ、追い腹を忠臣の証と考え、武士の倫理とする風習があった。しかし広家はこれを好まず禁止していた。
介錯(かいしゃく)
切腹直後、首を落とす重要な役目の者。斬首は残酷にも思えますが痛みを感じず安楽にて死を迎える事が出来る為この手法が使われていました。
森脇作右衛門 長清入道竹隠

 関ヶ原の頃(1600)、広家は自決を覚悟で家康に毛利家の存続を上申します。この時、介錯を賜ったのが「森脇作右衛門」で介錯と引き替えに殉死を嫌っていた広家に唯一、殉死を許されたとされます。

 

 

千寿院-せんじゅいん

千寿院-せんじゅいん

初代藩主 広家の側室

家臣 有福新兵衛家経の娘

没年 1671.06.20 享年不明

智照院-ちしょういん

智照院-ちしょういん

2代藩主 広正の側室

堺 植村与三右衛門の娘

没年 1652.06.23 享年不明

 

吉川家の関係であろうお墓
吉川家歴代藩主 読み 生涯
初代藩主 広家 ひろいえ 1561~1625
2代藩主 広正 ひろまさ 1601~1666
3代藩主 広嘉 ひろよし 1621~1679
4代藩主 広紀 ひろのり 1658~1696
5代藩主 広逵 ひろみち 1695~1715
6代藩主 経永 つねなが 1714~1764
7代藩主 経倫 つねもと 1746~1803
8代藩主 経忠 つねただ 1766~1803
9代藩主 経賢 つねかた 1791~1806
10代藩主 経礼 つねひろ 1793~1836
11代藩主 経章 つねあきら 1794~1843
12代藩主 経幹 つねまさ 1829~1867
13代藩主 経健 つねたけ 1855~1909
14代藩主 元光 もとみつ 1894~1953
15代藩主 重喜 しげよし 1925~1999

※6代経永、13代経健のお墓は「実相院」へ