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NAKANO Granite

錦帯橋-下巻-宇野千代と鞍掛城


第三十章
宇野千代と鞍掛城
錦帯橋

宇野千代の著書「残つてゐる話」

(1980.1.10集英社1,000円)

残つてゐる話(1980・1・10集英社1,000円)

 宇野千代の著書「残つてゐる話」には宇野家の祖先は、玖珂(現岩国市)の鞍掛城城主の杉隆泰の家老、宇野筑後守正常と記してあります。鞍掛城の麓、谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。昭和8年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石積の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。昭和63年、南端の1基について、玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。宇野千代の直筆による「史跡千人塚に想う」の追悼碑は、「随筆残つてゐる話」の中に記述があり、鞍掛合戦の悲痛さに胸打たれた想いが語られています。3月5日の追悼碑除幕式には、宇野女史は体調を崩して出席できず、その後、逝去されました。「案内板より」
史跡 千人塚 に想ふ史跡 千人塚 に想ふ
 史伝によれば、戦国大名安芸の毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を破り、勢ひに乗じて周防長門へ駒を進めた。その最初の戦が玖珂盆地における鞍掛合戦であつた。
 大内氏の三家老の一人、この地方を治めてゐた治部大輔杉隆泰は、千三百余名の部下とともに鞍掛城に立籠り、毛利軍七千を迎え撃つたが多勢に無勢、砦を枕に壮烈な討死をとげたといふ。弘治元年(1555)11月14日のことであつた。
 血縁地縁につながる者の一人として、ここ千人塚に眠る将兵の悲憤に思ひを致し、心からその霊を慰めたい。
 昭和63年3月5日
 宇野千代史跡 千人塚

史跡 千人塚場所-[国土地理院]
北緯34度5分59秒、東経132度4分53秒

史跡 鞍掛合戦古戦場

史跡 千人塚 鞍掛山(240メートル)は戦国時代の古戦場である。弘治元年(1555年)十月一日安芸国の大名毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢(すえはるたか)軍を滅ぼし防長二国に進攻してきた最初の合戦が鞍掛合戦であった。
 大内氏の奉行三家老の雄 玖珂盆地の領主であった食邑(しょくゆう)三万石鞍掛城主治部大輔(じぶだゆう)杉隆泰は部下二千六百を率い十一月九日より毛利軍七千を迎え討ち壮烈なる戦いを挑んだが多勢に無勢遂に十四日(十月二十七日説もある)部下の将兵千三百七十余と共にこの鞍掛山頂の砦をまくらに討死落城した。
 城主杉隆泰、父入道宗珊(そうさん)の墓は祥雲寺にあり部下将兵は山麓に三基の千人塚として合葬されている。
岩国市
史跡 鞍掛合戦古戦場場所-[国土地理院]
北緯34度6分10秒、東経132度4分28秒
史跡 千人塚史跡 鞍掛城城主、杉隆泰・杉貞泰之墓(祥雲寺)-[国土地理院]
北緯34度5分43秒、東経132度5分5秒


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